What I’ve Wish I’ll Know - 教えて欲しかったこと -

Paul Graham氏のエッセイ What You'll Wish You'd Known -知っておきたかったこと- をふまえて。

それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。コンピュータの世界では、これに名前までついている。「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」

この言葉の真意は、士気を失うなってことだ。他の人に出来ることを自分は出来ないと思っちゃだめだ。それに、自分の可能性を過小評価してもいけない。すごいことを成し遂げた人を見て、自分とは人種が違うと思うかもしれない。しかも伝記ではそういう幻想はますます誇張される。伝記を書く人っていうのは対象となる人物にどうしても畏敬の念を抱くものだし、物語の結末がわかっているからそこに至るまでの人生のできごとをまるで運命に導かれたように、内なる天才が徐々に現れて来るように描きたくなるんだ。実際のところ、もし16歳のシェークスピアアインシュタインが君と同級生だったとしたら、たぶん彼らは才能を現しているだろうけれど、それ以外は君の他の友達とさほど変わらないはずだとぼくは思う。

こう考えるのは、おっかないことだ。彼らがぼくらと同じなんだとしたら、彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらいすごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。

僕は大学では自分のやりたい事をほとんど学べていない。「学ぶ場」というよりは「人と出会う場」として大学をとらえている。ほとんど学校には行っていないが、学内の知り合いはそこそこ多いと思っている。幸いにも自分の好きな事はあるので、家では出来る限りそれに関連する本を読んで過ごしている。テレビ、新聞、ネットと誘惑も多いが、それに負けない事が大切。現にテレビはコンセントを抜きっぱなしで、引き取ってくれる方を募集中だ。

きっと世の中に天才なんていないんだ。もちろん能力差は人それぞれで、凄い人もたくさんいる。でもその人達は並々ならぬ努力、そして何事をも成し遂げるエネルギーを兼ね備えている。今月の始めに産総研の方々とお会いして、この事を思い知った(現にテレビを持っていない人が多数いらっしゃった)。「努力」・「エネルギー」こそが自分を高める原動力だと分かった。でもそれだけじゃダメで、自分に問いかける事も必要。このエッセイでいう「偉大な問い」は自分に数多くの問いをする事で不意に生まれてくるものだと思う。常日頃から自分に問いかけ、それに対する答えを考える事が重要だ。かなり難しいんだけど。

守破離(しゅはり)」という言葉がある。ものごとを学び始めて独り立ちするまでの過程を表した言葉である。『守』最初の段階では、指導者の教えを守り、できるだけ多くの話を聞き、指導者の行動を見習って、指導者の価値観をも自分のものにしていく。学ぶ人は、すべてを習得できたと感じるまでは、指導者の指導の通りの行動をする。そして、指導者が「疑問に対して自分で考えろ」と言うことが多くなったら、次の段階に移る。『破』次の段階では、指導者の教えを守るだけではなく、破る行為をしてみる。自分独自に工夫して、指導者の教えになかった方法を試してみる。そして、うまくいけば、自分なりの発展を試みる。『離』最後の段階では、指導者のもとから離れ、自分自身で学んだ内容を発展させる。

誰だって今あるモノを出来る限り学んで、それを自分で発展させていく。ピカソだってそうだ。彼は普通の絵を書かせても一流だ。ただそこで終わらなかったのが重要だ。「離」の段階までいくのは非常に難しい。でもきっと行ける。多少自己暗示めいているが、そのぐらいが丁度なんじゃないかなと僕は思う。まだまだ行ける。